2017年10月7日土曜日

Gabba Summit - MIKE REDMAN+DJ TECHNORCH+DieTRAX+JEA(SHARPNELSOUND)



先月SF studio.にて開催したトークショウ「MURDER CHANNEL Talk Show Vol.1」にておこなったMIKE REDMAN+DJ TECHNORCH+DieTRAX+JEA(SHARPNELSOUND)が参加したハードコア・テクノ座談会「Gabba Summit」の一部を公開!

90年代中期からロッテルダムのGabbaシーンにて活動をしている生き字引であるMIKE REDMANを迎えて2時間にも及んだ貴重なトークショウを一部編集し纏めた物が今回公開したテキストとなります。
このテキストでは公開していない面白い話や驚くべきストーリーもまだまだ沢山ありましたが、それはまた別の機会に。。。
オールドスクールなGabbaファンは勿論、メインストリームやアップテンポ、クロスブリードやブレイクコア好きも必見の内容です!

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MIKE REDMAN(REDRUM RECORDZ)
https://redrumrecordz.bandcamp.com/
MC/トラックメイカー/ドキュメンタリー作家/イラストレーター/特殊メイクアップ・アーティストなどマルチな肩書きを持っており、90年代後半からジャングル/ブレイクコア・プロジェクト「DEFORMER」としても活動中。

10代の頃より特殊メイクアップ・アーティスト/映像作家として活動を始め、95年にDJ Paul Elstakの「Don’t leave me alone」のミュージックビデオの製作を手掛ける。
MCとしてもハードコアやドラムンベース・シーンのトップアーティスト達と共演しており、DJ Paul Elstak、The BeatKrusher、Neophyte、Evil Activities、N-Vitral、Sinister Souls、Bong-Raといったアーティスト達の楽曲にもMCとして参加。

ドキュメンタリー作家としては、オランダのヒップホップ・シーンにフォーカスを当てた「WALKMEN (The History Of Roffadamn Hip Hop) ‎」、オランダのヴィジュアル作家Diet Wiegmanのドキュメンタリー「ANAGRAM」、George Clinton、Grandmaster Flash、DJ Shadow、Bob James、Jazzy Jeff、Amon Tobin、EL-P、Afrika Bambaataa、Madlibといった大物達が出演したサンプリングカルチャーに関するドキュメンタリー「Sample: Not For Sale」を発表しており各国で高い評価を受けている。

近年ではPublic Enemyのニューアルバムへのトラック提供やハード・ドラムンベース・レーベル「PRSPCT」からのDEFORMER名義でのリリース、ロッテルダムのGabbaシーンに関する長編ドキュメンタリーの制作など多彩に渡る活動をおこなっている。



Technorch(以下T). まず、MIKEさんにお聞きしたいのは一番最初のRotterdam Hardcore/Gabbaのリリースは何ですか?Mescalinum UnitedのWe Have Arrivedが最初のGabbaトラックとされていますがどうでしょうか?

MIKE REDMAN(以下M). 徐々に盛り上がっていったシーンだから何が始めかを特定するのは難しいけれど、オランダでは92年にリリースされたEuromastersのインパクトはとても大きかった。それとフランクフルトのMescalinum Unitedも大きいインパクトがあった。




JEA(以下J). Rotterdam Recordsの1番が出た時にMIKEさんは何歳でしたか?

M. 14歳くらいだね。始めて聴いた時なんだこれは!って衝撃を受けたよ。

DieTRAX(以下D). Rotterdam Records最初のリリースのEuromastersから流行ってたの?

M. Euromastersが出たことによってみんな完全にぶっ飛ばされたよ。今までの他の音楽とまったく違ったからね。

T. Rotterdam Termination SourceのPoingが当時オランダのポップチャートの上位に入ったと聞きましたが、これはポップチャートに入るような音楽だったんですか?

M. みんな、これは音楽なのかとショックを受けてたよ。そして一瞬で火がついた。当時はプリンスよりもPoingのほうがポップだった位さ(笑)。それまでGabbaはアンダーグラウンドな音楽だったけどPoingがスマッシュヒットしてポップチャートに入ったことによって皆に認知されるような音楽になった。Poingは最初のコマーショナルなトラックだったとおもう。




D. 普通のレコードショップにもPoingは置いてあったの?

M. そうだね。特にMid-Town Recordsでは。
Mid-Town Recordsというのは元々はレコードショップだったんだけど後に流通やレーベル運営も始めていきRotterdam Recordsがスタートしたんだ。

<MID-TOWN>
オランダの老舗ハウスレーベル。ガバにおける最重要レーベルROTTERDAM REOCRDSをはじめ、FORZE REC.、NEOPHYTE REC.、H2OH、TERRORTRAXや、HARDSTYLEレーベルのSEISMICなどを擁する一大ハードコアディストリビューター。オランダ国内ではアムステルダム、ロッテルダムなどにショップを構え、DJ Panicも店員として働いていた。2011年に倒産。
https://www.youtube.com/user/midtownrecords

T. Mid-Town Recordsの跡地は中華屋になったと聞きましたが中華屋なんですか?

M. Mid-Town Recordsがクローズした後、最初はクラブになったんだけど中華食材屋になって今はクッキー屋になったよ。


                                                  <DieTRAX@Mid-Twon Records跡地にて>

J. 僕は98年くらいにオランダに行った時にMid-Town Recordsiは憧れだったんでアムスに行ったらMid-Town Recordsに行き、ロッテルダムのMid-Town Recordsにも行ってました。ロッテルダムは二つお店があって片方ではDJ PANICが定員をやっていてレコードにサインして貰ったりしてました。PANICはクッキー屋にはいないでしょうけど(笑)

T. Rotterdam Recordsの1番(Euromasters/Amsterdam Waar Lech Dat Dan?)はアムステルダムは地獄ってタイトルですが、日本人のDJがオランダのフェスでAmsterdam Waar Lech Dat Dan?のリミックスをかけたら最前線のフーリガンからブーイングが来たらしいんです。Rotterdam Recordsの初期のナンバーはメッセージ性が強く首都アムステルダムに対する批判色も強いですが、どれくらい本気だったのですか?

M. ワオ、、それはそうだろうね(笑)
当時、オランダのチャートに上がってくるような曲は大体アムステルダムのプロデューサー達が作っていてロッテルダムのプロデューサー達は面白くなかったんじゃないかな。それとロッテルダムとアムステルダムでのサッカーチームとフーリガンの関係性もあったから。本気の批評っていうよりはからかう感じだね。


T. Alles Naar De Kl--teとはどういう意味なんですか?

M. Alles Naar De Kl--teは全部ぶち壊せ、みたいな意味だよ。
Liniaの素晴らしいジャケットを見れば解るけどユーロマストなどのロッテルダムの象徴があるよね。この曲はとてもオランダのローカルな話で全てを説明するのは難しいけど怒りやフラストレーションが根源となっている。

J. アムステルダムの位置づけは東京的な位置づけで、ロッテルダムは大阪みたいな感覚で。東京vs大阪みたいな。大阪が通天閣をジャケにして東京をディスる感じかな。

M. そうだろうね(笑)

T. ロッテルダム・テクノを始めた最初のアーティスト達のルーツはなんですか?

M. ラップミュージックやデトロイト・テクノが好きな人が多かった。PAULはラップミュージックの大ファンでブレイクダンスもやっていた。

T. オランダではRotterdam Recordsのジャケットみたいな画風の漫画が普通の本屋で売られていたと聞きましたがそれは普通なんですか?

M. Liniaは独自の素晴らしいスタイルを持っているけど文化的にこいうったスタイルは当たり前にあるかもしれない。

J. 日本でいうとナニワ金融道みたいな。

M. 日本でもRotterdam Recordsは有名だったんでしょ?(日本編集版のRotterdam RecordsのCDを手にとって)これは日本限定のエクスクルーシブだよね?Liniaが特別にジャケットを書いているみたいだ。


D. 1番は誰かがそれっぽく書いていましたが、2番からは本家のLiniaに頼んでいたみたいですね。

T. Gabbaは当時(92年)の他の音楽とは速度があまりに違いますが、オランダの人達はこの速度感についていけたのでしょうか?

M. プロデューサー達の中で試行錯誤があった結果テンポが上がっていったということもあるけど、当時オランダでエクスタシーが登場したこともBPMが上がった要因の一つかもしれない。

T. さっきここで見ていたGabbaのドキュメンタリーでインタビュアーがお客さんに質問している所でお客さんがインタビュアーにドラッグをキメたばっかりだと発言しているシーンがありましたが、ドラッグカルチャーはお客さんもプロデューサーもそれ一色の文化だったんですか?

M. 全員じゃないけどほとんどだね。オーディエンスは特に。ほとんどドラッグをキメて楽しんでる。



D.
お酒と一緒みたいな感覚なのかな?

M. うーん、そうじゃないかな。ドラッグはどんなジャンルにでも存在している。ハウスシーンはエクスタシーやスピードとか、レゲエやヒップホップはマリファナといった具合にね。そういった中で僕はまったくドラッグを摂取しないから逆にアウトサイダー的な立ち居地だ。
問題なのはメディアがGabbaを語る時にドラッグと結びつけてしまうところだ。
Gabba=ドラックみたいな語り方をされるのがとても残念。。Gabbaはドラッグの為の音楽とされていて音楽アートとして見られていない。ドラッグとスキンヘッドというイメージだけで語られるのがとても勿体無いよ。

T. これ(ドキュメンタリー)に出てくるGabbers達はいつ頃からいるのでしょうか?

M. 93年かな。これはとてもステレオタイプなGabberだよ。Australianを着てNIKE AIR MAXを履いてるね。
Australianのジャケットはとても高価だったんだ。いかに自分がイケてるか自慢する為にひどい奴はAustralianを5枚重ね着してたよ(笑) ジッパーが下まで閉まらなくなってた(笑)

T. このドキュメンタリーにMIKEさんは出ていたんですよね?

M. ああ、DJ PAULと一緒に出てたよ。95年のEnergy Hallだね。一万人のお客さんが来ていてステージの上から見た光景は凄かったよ。
みんなスキンヘッドだから誰が誰か解らないから着てるAustralianの違いで見分けてたね(笑)

T. 改造学ランのノリに近いですよね(笑)

J. 日本のGabbaファンはですね、こういうビデオを入手してダビングを重ねて何度も見ていてAustralianに憧れてました。ジャージでクラブに行くっていう(笑)
LONSDALEも流行ってたよね?

M. そうだね、これの少し後にね。

D. 男女比はどれくらいだったの?

M. 半々だったよ。男はスキンヘッドで女の子のGabberはツーブロックみたいに髪を半分剃っていたね。

T. この頃はGabbaだったんですか?HAPPY HARDCOREだったんですか?

M. Gabbaだったね。この時はまだHAPPY HARDCOREは盛り上がってなかったけどその後火がついた。

T. 最終的な集客のピークはいつでしたか?

M. 96年~7年は凄かったね。最盛期だった。Gabbaが好きな人はHAPPY HARDCOREを好きじゃなかったから。HAPPY HARDCOREはメインストリームの音楽として盛り上がっていたけど、98年には皆飽きてた。

J. 96年にはDJ PAULはHAPPY HARDCOREを作っていますよね。



M.
このMVでフレディ・クルーガーの格好で踊ってるのは僕だよ。フットボールスタジアムでやってたんだ。

T. 当時DJ PAULはヒットチャートの常連だったんですか?オランダのTVにも出てたと聞きましたが。

M. とても有名だった。曲は常にチャートの上位に入っていたよ。バックストリート・ボーイズとも共演していた。

T. ドキュメンタリー内でDJ Paulはインタビュアーに対して”(94年のHappy Hardcore化する前のアリーナ・レイヴを指して既に)これは明らかにオーバーグラウンドだが、リスナー達はそれでもHardcore(Gabba)はアンダーグラウンドだと考え続けるだろう”というような受け答えをしています。アリーナに万単位の人が集まっても、当時のリスナー達はHardcore(Gabba)はアンダーグラウンドだと考える空気はありましたか?

M. 多分、そうじゃないかな。PAULはシーンの一番上で頑張っていたけど他のプロデューサー達はPAULの真似をしてパロディにしたり最終的には子供の童謡みたいなものをHAPPY HARDCOREとして作り出していった。くだらなくてついていけなかったよ。

J. Hakke for kidsとか。あとこれとかね。



J.
これ見たら解りますけど絶対シーンは終わりますよね(笑)。アムステルダムに怒りをぶつける音楽だったのに最終的にこうなってしまうという。
でも、僕はこういうの大好きで。ハードなのも好きだったんですけど96年にこの曲が日本に入ってくるんですけど日本人は誰も聞いていなくて。
98年にオランダに行った時にレコードショップには置いていなくて、オランダのブックオフみたいなフリーレコードショップって所の100円コーナーに一杯あって(笑)。当時100万枚くらい売れていたから。
この辺を出してたのがMECADOというレーベルで。日本には入ってこなかったら向こうで沢山買いました。

M. 皆かなりブチ切れてたよ(笑) 沢山こういったのがあったからね。

T. この頃、ガチガチのGabbaファンは何処にいってたんですか?

M. Gabbaのイベントはあったよ。Neophyteも活動を続けていたし良いリリースもあった。シーンは小さくなったけど続いていた。

J. なるほど。好きな人だけが残ったんですね。96~7年はHAPPY HARDCOREがGabbaを駆逐したと。

T. HAPPY GABBAって通じますか?

M. オランダでは使われていないね。HAPPY HARDCOREかGabbaかな。
メディアのせいでGabbaはネガティブなイメージがあったからね。悪い印象を払拭する為にプロデューサー達はGabbaでは無くてHAPPY HARDCOREという名前でムーブメントを盛り上げようとしていた。98年には誰もGabbaって言葉を使っていなかった。

T. Gabberはどれくらいの社会現象だったんですか?

M. 95年~96年のロッテルダムには本当に沢山のGabberがいたよ。みんな集団で歩いていたから普通の人達には驚かれてたよ(笑)
94年にはNirvanaも流行ってたからGabberとグランジのファンがぶつかり合ってたよ。スキンヘッドとカート・コバーンみたいな長髪のグランジ好きが対立してた(笑)



J.
UKのHAPPY HARDCOREの人がオランダでプレイすることはあったんですか?

M. 多くはなかったと思う。ドイツとかの方が多かった。
UKはRAVEサウンドだったしGabbaとは違った。Scott Brownは有名だったけどね。

J. UKのHAPPY HARDCOREとオランダのHAPPY HARDCOREがあって、プロデューサー的にはScott Brownを通じてPAULとコミニケーションしてHAPPY HARDCOREの影響がオランダにも入ってきたんだけど、UKのDJがオランダにはあまり来ていなくてオランダ独自のHAPPY HARDCOREを作ってしまうのが面白いですね。

T. オランダのGabberにUKのHAPPY HARDCOREはなんて呼び別けているのか聞いたらオランダの音楽以外は聴かないと言われたんですけど極端に言っているのでしょうか?

M. そうだね、オランダのGabbaしか聞いていなかったようにおもう。イタリアのハードコアが有名になってきてからは違ったかもしれないけれど。The Stunned GuysはRotterdam Recordsとコラボレーションしていたからね、

D. ネットが発達して交流しだしたのかな?

J. 98年くらいにアーティストの公式サイトが出てきましたからね。それでまはMid-Town Recordsからレコードを輸入するのには手紙を書いてFAXでやり取りをする時代でしたから。何人かが集まってカタログを見て買ってました。ネットが始まって大分やりやすくなった。

T. ロッテルダム・テクノって言い方は通じますか?

M. オランダ以外で使われている言葉だとおもうよ。アメリカではハードコア/ハードコア・テクノと言われてたみたいだ。ロッテルダムという言い方は日本のリリースによって需要が広がったんじゃないかな。
当時、ロッテルダムは都市じゃなくてジャンルだと思われてたくらいだよ(笑) それ位ロッテルダムの音楽として認識されてた。

D. アムステルダムでもGabbaのイベントはあったの?

M. 勿論。アムステルダムでも有名なのがあったよ。Thunderdomeとかね。沢山イベントがあって多くのDJがアムステルダムやロッテルダムを行き来してDJをしていた。



T.
98年にHAPPY HARDCOREが終わっていきなりシリアスな方向のハードコアに変わっていきましたが、それはリスナーがそれまでのHAPPY HARDCOREに飽きたからですか?

M. 正確なことは解らないけど、HAPPY HARDCOREに飽きたから反発してシリアスな方向になったんじゃないかとおもう。

J. 99年くらいになるとテンポが遅くなってきてそれでNEW STYLEになってくるはず。2000年くらいかも。

D. それ位の頃にGUHROOVYでNEW STYLEが売っててなんだこれってなったのを覚えてるよ。

J. 関西では遅GABBAって言われてたよね。KAK-A Recordingsは日本では早い段階でNEW STYLEをプレイされてたし。PCPとかはジャーマントランスをハードにしたようなNEW STYLEの原型みたいなのを作ってましたよね。

T. JEAさんもNEW STYLEをやられてましたよね?

J. 99年にオランダに行ってNEW STYLEが流行っていて感動して作ったんだけど、日本では余り聞かれていなくて(笑)

J. なんでNEW STYLEが生まれたのでしょうか?

M. 答えるのが難しいから確実なことは言えないけれども、。違う要素が欲しかったからBPMを落としたんじゃないかな。JUMP STYLEとかもあったけど一瞬で終わったよね。

T. JEAさんがオランダに行ったのはいつですか?

J. 最初は99年かな。それから2000年、01年、06年に行っています。
99年はMysterylandっていうフェスに行って。野外フェスで2~3万人来るんですけど。2000年にThunderdomeが無かったんですよ。それまではThunderdomeが大きいイベントとしてシーンを支えてきてたんですけど。これはハードコアが終わってるんじゃないかのかと。それで、ベルギーのHardcore overdriveに行って。
その前にオランダに行って現地の人と話をしていて。ハードコアは終わったよ。行っても客はいないよって言われて、それでベルギーに行ったら2万人もいて。2万人もいるじゃん!って。客居ないって5人とかじゃないんだって(笑)
規模が全然違いますよね。特にHAPPY HARDCOREの時代って日本でいうと小室哲哉ばりに国民が口ずさむくらいのムーブメントだったわけですから、それにくらべればThunderdomeがないとか意識のギャップはありました。

T. シーンの沈静化はいつから活性化したのですか?

M. 2005年かな。ハードコアのサブジャンルであるフレンチコア、ジャンプスタイル、テラーとか様々なジャンルやリスナーを巻き込んでね。PAULやNeophyteがハードなトラックを作っていたし。



T.
ハードコア・ファンとハードスタイル・ファンは同じなんですか?

M. 全然違うね。お互いまったく付き合いが無いとおもう。向こうのフェスティバルだと大体一つのエリアから動かないんだ。ずっと同じエリアに居る。

T. オランダ人アーティストとツアーした際に、今DJ Paulってどういうことをしてるの?と聞いたら、この前見た時は若手Hardcore DJがプレイする前に昔のHardcoreの話をしてそのまま若手DJ紹介して交代とかをしてたよ。というのを聞いたんですが、こういうことはあるんですか?

M. そういうこともしているかもね。ただ、昔話をして老いぼれている訳じゃないよ。彼は本当に偉大なアーティストでシーンにとって欠かせない重要な人だ。今も現役だし尊敬されている。過去の話で伝えたいこともあるだろうから話すことはあるだろうけどね。

T. アメリカのindustrial strengthやドイツのDigital Hardcore Recordings、オーストラリアのBloody Fistといった他の国のハードコアからの影響はオランダのシーンやプロデューサー達にあったんでしょうか?

M. みんな世界中のいろんなスタイルの音楽に影響を受けているはずだよ。
UKのハードコアはブレイクビーツにRAVEサウンドを使ったり、ロッテルダムのハードコアはストレートな定期的なキックの打ち方だし、Scott Brownはロッテルダムからメロディラインなどの影響を受けていてロッテルダムはScott Brownのブレイクビーツに影響を受けていたり。いろいろな影響を受け合って進化しているんじゃないかな。

D. Scott Brownの影響は凄いよね。

T. Scott BrownのNow is the timeがGabbaって書いてあったり、UKのHAPPY HARDCOREって書かれていたり、Thunderdomeのコンピにも入ってるじゃないですか。タグづけが難しいですよね。影響を受け合っているのが解ります。

J. Now is the timeはいろんなバージョンがありますからね。



D.
Gabbaが日本でも流行ってたのは知ってたの?

M. かなり後になってから知ったよ。Euromastersが日本に行って帰って来た時に彼等から話を聞いたんだ。「マジで最高だったよ!日本人が俺達の曲を知っていて歌ってたんだぜ!」ってね。確かPANICがリリースしたDVDにも日本での映像があったよね?

J. 98年ですよね。東京はGABBER STORMでやってHAMMER BROSの解散もあって。

D. 俺は大阪に行ったよ。当時写ルンですでめっちゃ写真撮ってたよ(笑)



J.
これはリキッドだね。僕はこれに影響を受けて高速音楽隊シャープネルでサッカーシャツを着てたんですよ。大阪はNEOでしたよね?

D. そうそう。PAULが機材繋がってないのにシンセ弾いてるってのがいいよね(笑) 大阪ではCDをデッキに1枚1枚入れてやってたからね(笑) 当時CDJも無かったし。

T. 現在のハードコアのフェスティバルに来ているお客さんは曲を正規で購入しているんでしょうか?CDを買っているのですか?データを買っているのですか?曲は買わないけどフェスに踊りに来るって人もいるのですか?

M. 今はMP3かな。昔はレコードを皆買っていたけどね。Mid-Town Recordsも無くなってしまったから。ハードコアのレコードのリリースは殆ど無いよ。オランダではレコードショップも殆ど無いし。
日本はCDやレコードのフィジカル・リリースが多いから羨ましい。僕はフィジカルを買うのも作るのも好きなんだ。

J. MIKEさんはGabbaキックってどうやって作っていますか?

M. ギターペダルで歪ませたりと伝統的なやり方だね。皆はプラグインで簡単に作っているけど僕はクラシックなサウンドが好きなんだ。



T.
現在のオランダのハードコア・シーンの規模は?

M. Dominator Festival 2017の映像を見てみて。これが今のオランダのハードコアシーンだよ。



M.
ワンエリアで5万人いるんだ。
ハードコアのフェスといえばオランダという位に素晴らしいフェスが沢山ある。
だけど、オランダは大きいフェスがある変わり、それに客を取られて正直クラブ・シーンは低迷している。

T. HAPPY HARDCOREの全盛期よりも多いのですか?

M. 今のほうが全然多いね。

J. UKのHAPPY HARDCOREでもこの規模は無いですよね。この情報が日本に入ってこないのが面白い。
New Kids turboの影響もあるんじゃないなか?

M. ははは、それもあるだろうね(苦笑)。オランダでは有名な映画だよ。

J. New Kids turboは当時Gabbaっ子だった人達が大人になって無職になったりと社会的に低い位置にいてフラストレーションを貯めていてそれで田舎から世界を救いに行くというか破壊に行くというか。最後にGabbaの神であるDJ PAULで出て来て面白いことになるんですけど、それは映画を見てからのお楽しみで。典型的なGabbersが大人になったらってノリですよね。オランダのローカルジョークもあったりと。



T. 今日は聞けば聞く程にPAULの凄さが解りますね。

J. あと、クリスチャン・ディオールの冬シーズンがGabbaをテーマにしてるんですよ。New Kids turboから話が大きくなってメジャーブランドも追随せざるおえないっていう状況になっているのかな。Gabbaカルチャーの面白いところですね。
もし会場からも聞きたいことがあれば。



お客さん.
日本のハードコア・シーンはゲームミュージック主体になって若いお客様が多いと思います。自分は去年Masters of Hardcoreに出演してオランダの現場を見て来たのですが日本とはまったく別でした。それで、MIKEは日本のお客様を見てどう思いましたか?オランダの客層とは何処が違いますか?

M. 日本のお客さんはエナジーがあってとても素晴らしい。前回日本でプレイした時にはフロアでジャンプしてめちゃくちゃ盛り上がってくれていたしね。
それにアートワークやクレジットを見て関心を示してくれるのが嬉しい。僕も作品のディティールには拘っているからそういう部分に関心を持ってくれる日本のリスナーはとても好きだよ。音楽を真剣に聞いてくれているのが解る。

T. それでは最後に。ざっくりとした質問ですが今後オランダのハードコアはどうなると思いますか?

M. ワオ、、僕はノストラダムスじゃないけど、(笑)
流行は波のように上がったり下がったりするけれど、また下がる前に新しいプロデューサー達がいっぱい出てくるだろう。第二の波が来ていてとても良い時代になっていると思うよ。

通訳:L?K?O
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