2020年6月1日月曜日

Monolog『Everything at Zero』ライナーノーツ by 清家咲乃


ブレイクコアをはじめとする先鋭的な電子音楽をリリースしているレーベル『Murder Channel』から今作のライナーノーツ執筆のお声がかかった時には白状すると心底驚いたものだが、送られてきた音源を聴いてなるほどと手を打った。断片的にヘヴィ・メタルのパーツが組み込まれていたのだから。デンマークの音楽家、マッツ・リンドグレンによるプロジェクトMonologはいかにしてこうしたアプローチに辿り着いたのだろうか。まずは彼の軌跡を辿りたい。



Monologの活動が始まったのは1999年のこと。それ以前は数々のメタルバンドでギタリストとして腕を振るっていたようだ。加えて初めて自らの意思で手に入れたアルバムはMETALLICAの「…AND JUSTICE FOR ALL」だというのだから、彼のルーツにヘヴィ・メタルが根差しているのは間違いない。イギリスはブルーノートで行われていたドラムンベースのイベント『METALHEADZ』を想起させる、まさにメタルヘッズだったのである。フュージョン愛好家の父の影響下で育ち、バンド音楽の道へとまっすぐ進んでいくはずだった青年は、マット・ブラックとジョナサン・モアによるイギリスのエレクトロニック・ミュージック・デュオCOLDCUTの1stアルバム「WHAT’S THAT NOISE?」(1989年)に出会い電子音楽の果てない森に分け入っていくこととなる。ジャズギターを習いインスパイアを受けた彼は2001年に1stアルバム「MUMBLER」を発表。ジャズというよりもフュージョンやマスロックの風合いを感じさせる繊細さと線の太いエレクトロニック・ミュージックの融合は今聴いてもひとつひとつのセクションが淡い光を湛えているかのようなまばゆさを持っている。ギターは彼が自ら弾いており、打ち込みではない。数えきれないピースのなかで、電子音と生音を取捨しパチリパチリと嵌めていけば瀟洒なパズルの完成だ。翌2002年にリリースされた2nd「SLUGS」は基本的には1作目の流れを汲んだ形式の作りになっており、ドラムンベースとジャズをかけあわせたことで知られるRONI SIZE×ジャズ・フュージョン界の巨匠アラン・ホールズワースといった様相の楽曲がみられる。
時は流れ、3rd「AERODYNAMIC」が発表されたのは2012年のこと。その間マッツはノイズ・バンドで前衛的な楽器を演奏したりとMonologを離れた音楽活動を続けていた。その影響もあったのだろうか、スタイルは10年でガラッと変化しており、全体的にかなりヘヴィなサウンドへと進化している。歪ませたベースをスクラッチ・ノイズとともに音割れさせてみたり、風圧の強いスネアが眼前に現れたりと高音と低音がメリハリを保ちながらも共存している。“Tilsammans”のパーカッションのインダストリアル感はSLIPKNOTなどのエクストリームなニューメタル・バンドに近い。2013年の4th「LIFT AND HOLD FOR STOLEN」ではダブステップやブレイクコアの流儀も呑み込んで、よりリズミカルかつダンサブルなナンバーが目立つようになる。アンビエントなアトモスフィアを纏ったギターも挿入され、更にToneを迎えたヴォーカル曲も配されている。こうしたジャズ/フュージョン的ギター+エレクトロニカ系レイヤー+低音(Monologではガバキックや歪ませたベース、バンド群はダウンチューニングもしくは多弦ギターによる)+インストゥルメンタルというスタイルはこの頃全盛を迎えていた、ANIMALS AS LEADERSやPLINIなどのフュージョン系Djentを彷彿とさせることも記しておきたい。彼は初音源よりこれらの要素をひとしきり揃えてはいたが、一度ヘヴィなスタイルを通ったこと、そして彼のルーツがメタルにあることから当時の風潮を反映していたとしてもおかしくはないだろう。それまでで最もメロディアスなアルバムだろう。ある種の「わかりやすさ」を受け入れたことにより、余計にその下層に敷かれているインテリジェンスが強調されているようにも思える。同年リリースの5th「2 DOTS LEFT」においては再びToneら外部アーティストをフィーチュアしつつもハードに転化。文字通りインダストリアルな機器の稼働音をサンプリングしたような、もしくはそれを模したビートは、膨大に録ってあるというフィールド・レコーディングから選び取られたものだろうか。冷えた質感はサイバーゴスのそれにも似ていて、インタビュー上で80年代ダークウェーブを好むと発言しているのも頷ける。

2014年発の6th「MERGE」は全体を通して重心の低いビートが特徴で――ダブ/ダブステップの要素が強い――その上に深いスネアの音や華奢なノイズをまぶし、CHELSEA WOLFEといった女性シンガーによるダーク・フォークから90sスタイルのヒップホップまでを乗せるという荒業を成し遂げている。アルバム・タイトルの「merge」とは「溶け合わせる」という意味を持つが、取りも直さず様々な素材が彼のトラックというメルティングポットのなかで濃密に混ざり合った結果を聴いている感覚がある。少しの沈黙を経て2017年の初めに完成した7th「WHEN THE CLOUDS ROLL BY」は前述のフィールド・レコーディングを参照したのか、鍾乳洞のなかで身を震わせながら最期を迎える時のような残響で幕を開ける。刺激的な音楽体験として鉱山でPAN SONICを聴いたことを挙げている彼だが、もろにその衝撃を反映しているのではと思える(前後関係は定かではないので、彼の理想としたこのサウンドに実体験が後から合致したのかもしれない)。ダンサブルであることに間違いはないのだが、音圧が前作に比して各段に増していることによってより強制力を持つビートがはりめぐらされている。岩のようなキックと今にもワブルベースが乱入してきそうなノリのよいトラックに思わず眩暈を覚える。間髪入れず発表された8thアルバム「CNVEYOR」が運んだのは圧倒的なヘヴィネスだ。デジタルな歪みを伴わないベースの音、そしてRAMMSTEINをはじめとするインダストリアル・メタルやNeue Deutsche Härteに挿入されるような強く脈打つビートと無機質なギターはやはりゴスでありメタル的であると言わざるを得ない。後半にはピアノのサウンドも登場し、ヘヴィネスこそ大幅に足されたものの初期からの電子音と楽器の掛け合わせという構成は保たれている。続く「INDEMNITY AND OBLIVION」は2018年にリリースされた9th。“True North”ではなんと90年代に隆盛を誇ったスウェーデンのデス・メタル・シーンの一角を担うバンド・CEMETARYの元ヴォーカルでありながらDOMAIN ID名義でエレクトロニック・アーティスト/DJとしても活動するマティアス・ロッドマルムとコラボレート。歪み切ったトラックにこれまた歪んだ声がねじ込まれるという耳鳴りを起こしそうなフルコースを提示されては、Monologことマッツがいまだメタルヘッズであることは否めない。さて、これらをふまえての最新作である。

記念すべき10作目である今作「EVERYTHING AT ZERO」は冒頭でも申し上げたとおりメタル的なパーツを持ったアルバムだ。メタル的な「レイヤー」でも「質感」でもなく、パーツをそのまま持っている。ロボットに金属めいた外見のペイントのペイントを施しているのではなく四肢が実際に鉄で出来ている、とイメージしていただくと良いだろう。
前作でメタルへの愛着をさらけだしたMonologは、しかし90’s デス・メタル・リバイバルに乗るでもなく、ルーツに戻るでもなく、暴力的にヘヴィなベースとキックを用いて、メタルコア以降のヘヴィミュージックに接近してみせた。彼自身がアルバム中最も気に入っているというオープニング・チューン“Clutches Of Disaster”は巨大な海洋生物の「ひれ」のように平たく広く照射されるざらついたホワイトノイズ混じりのシンセサイザーにベース(いわゆる電子音めいたベースではない)が拳骨を振り下ろす形で始まる。細かに切り貼りされたサンプリング音で刻まれるリズムといい、そのインダストリアルないでたちといい、時代を引っ張るメタル・バンドCODE ORANGEを彷彿とさせる。近年ポスト・マローンとオジー・オズボーンの共演やBRING ME THE HORIZONとGrimesのコラボレーション、トラップメタルの台頭など挙げ出したらキリがないほどにエレクトロニック・ミュージックとヘヴィ・メタルの相互の歩み寄りがみられるが、メタル的ヴォーカル+電子音のトラックまたはヒップホップ/エレクトロニカ的ヴォーカル+メタルのトラックという風な組み合わせをされることが多かったように思う。例によって、前作収録の“True North”も電子音のトラックにデス・ヴォイスの組み合わせである。あくまでコラボレーションや抱き合わせに過ぎなかったと言ってしまうと過剰だろうか。だが、「EVERYTHING AT ZERO」収録の楽曲はトラックのなかでメタルと電子音が癒着してしまっている。切り取り線を残さずに。もう剥離は起こせない。
“Inevitable”では生楽器的なベースと電子音ベースを織り交ぜ、互いがいかに違っているか、どこまで共存出来るかの試金石にしている。特に中盤のピークに打ち込まれるキックのブルータルさは昨今のエクストリーム・ミュージックに使われるトリガー(ドラムの生音の振動を拾い様々なサンプル音を鳴らす装置)によってアタックの強度を加工されたバスドラムの音に似ている。トリガーの存在はしばしば装置の力を借りていること、つまり演奏力の欠如としてオールドスクール・タイプのメタル・リスナーに指摘されるが、極めて機械的ながら人間がプレイの正確性をより高めようとする人間臭さの表出でもある。はじめから意のままに音圧を操作できる電子音楽においてそれを再現することは意図的に有機性を作り出している状況に近い。機械が、機械的であろうとする人間の真似をしているのである。作為的に行われているとしたら道化めいた恐ろしさを感じる。3曲目の“Hook Echo”ではうっすらと響くギターのリフに緞帳を下ろしてしまうかのように同じラインを電子の極太ベースがなぞる。かと思えばだんだんと緞帳は上がり、ギターの――ディストーションのかかったいかにもメタル的なギターだ――が耳穴に舞い戻る。“Interloper”はスラッジ―な一曲。と言っても電子音で構成された世界には陶酔に導くマリファナは存在しない。目の前にはカプセルだけが置かれ、耳鳴りのようなノイズの悲鳴が意識を繋ぎとめる。
続く“Edges”ではDjent的な、ギターの指板で言えば再低音弦の0と1の世界が広がっている。実際にこの曲が作られているのも0と1の2進数の世界であるから面白い。“4 Minutes Forever”はブレイクコア的な作りになっていて、ここでやっとMonologはダンス・ミュージックとしての自我を取り戻す。だが、気になるのは総ての曲(アルバム後半のリミックス集を除く)がフェードアウト――どちらかといえばホワイトアウトと形容するほうが近い――する形で終わることだ。彼はアルバム制作時人類に怒りを抱いていたとインタビューで語っている。ならばこれは憤怒が彼の毛細血管を破壊せしめた時のホワイトアウトする視界なのではないか。そして、彼にとって怒りを表現するうえで一番正統な手段がヘヴィミュージックという凶器だったのではないか。となれば、ヘヴィミュージックに浸食していったエレクトロニック・ミュージックのアーティスト達は怒りや絶望を抱いていたのだろうか?逆に、電子音に浸食されていったCODE ORANGEのようなフューチャリスティックな世界観を展開するアーティストは今の世界を脱したいのだろう。そう考えれば合点がいく。怒りによる破壊か、絶望による離脱。どちらにしても、この世界はじきに終わる。

清家咲乃
ライター。ヘヴィ・メタル雑誌BURRN!の編集を経てフリーランスに。ネット・紙媒体問わず活動中。